#お墓から見たニッポン 9-3 なぜ切腹させられた?【千利休の謎】~生前に建てた墓は信長の墓の側にあった~その意味とは? #千利休 #織田信長 #豊臣秀吉 #中野信子 #クラウドファンディング


テレビ大阪

以下、「#お墓から見たニッポン 9-3 なぜ切腹させられた?【千利休の謎】~生前に建てた墓は信長の墓の側にあった~その意味とは? #千利休 #織田信長 #豊臣秀吉 #中野信子 #クラウドファンディング 」の概要欄より

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【Episode3】なぜ秀吉に切腹させられた?
千利休(1522-91)

堺の商人だが「天下人」の道を進む織田信長に見出され、
「茶聖」と賞され茶の湯を極めた。
のちに豊臣秀吉の側近として、政にも関わり
「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」
と秀吉の弟・秀長に言わしめるほど多くの武将や大名に影響力を持っていた。
しかし、突然、秀吉との関係に不和が生じ、最期は切腹を命じられた。

なぜ千利休は秀吉の怒りを買ったのか?
そして利休の信念とは?

●千利休の墓 大徳寺聚光院(京都市北区紫野)
天正19年(1591)、利休は突如秀吉の逆鱗に触れた。大徳寺の山門修築の事業で楼門・金毛閣を寄進。その落成にあたって利休が書かせたのが「千門萬戶一時開」の一偈。この文に秀吉が激怒。利休の影響力が自分の影響力を超えていると考えたという。利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。享年70 。墓は、自分と妻のために生前に建立していたのだった。

●織田信長と千利休の関係は?
この大徳寺内には、聚光院のすぐ横の総見院に信長の一族のお墓が並んでいる。秀吉が信長の一周忌に建てたものだ。秀吉と関わった者たちと織田信長。想像が膨らむ。利休は馬が合わない秀吉にいずれ殺されるだろうと予感していたからこそ、生前に墓を建て、その場所は最初に自分を引き立ててくれた恩義がある信長の側で眠る方がいいと。

●日本の歴史に相撲は欠かせない存在だった
相撲(角力)は古来から歴史があり、戦国時代には織田信長が安土城内で1500人もの力士で相撲大会を開いた記録も残っている。江戸時代になると江戸、京都、大坂では職業力士の大会も開かれるようになった。一方、地方の村では農民や商人たちが力士となり「勧進相撲」が盛んに開かれるようになった。

●チャリティで建てた庶民の墓
滋賀県守山市赤野井には、「村相撲のヒーローだった力士」の墓が残されている。亡くなった力士の仲間の青年団が、追討のための「チャリティ角力大会」を催して、それに共感した人たちからの売り上げで墓碑を建てたのだ。明治・大正期に入ると、日本人に脈々と受け継がれてきた「助け合いの精神」が、仲間うちだけでなく他人にも広がっていくことがわかる。そして、その精神が現代のチャリティやクラウド・ファンディングなどにも通じているのではないだろうか。

●お墓を見れば「日本の庶民の本当の歴史」が見えてくる
庶民の「燃え尽きぬ信念」とは、「生きていくこと」そのもの。どんな時代であっても食べていくことが最優先。戦乱の時代では「仲間との協力」、平和な時代では「他の人たちの協力も得る」、また大災害のときには、「後世の人々のことも」考えるようになる。それが「証」として後世の私たちが知ることができるのが、お墓の素晴らしさかもしれない。

#中野信子 #朽木量 #カジポン・マルコ・残月 #坂本七菜



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