テレビ大阪
以下、「#お墓から見たニッポン 9-1【評価は真っ二つ‼足利尊氏の信念とは?】戦場では冷静な理想のリーダーだが、為政者としての資質を問われた尊氏。彼を激しく突き動かした“燃え尽きぬ信念”とは!? #足利尊氏 」の概要欄より
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#中野信子 #朽木量 #カジポン・マルコ・残月 #坂本七菜
episode1
室町幕府を開いたカリスマ足利尊氏(1305-58)
源氏の血を引く鎌倉幕府の名門・足利氏の生まれ。
しかし後醍醐天皇の挙兵に呼応し、鎌倉幕府を滅ぼすが、
新政下で政情が不安定になると、天皇との関係が悪化。
後醍醐天皇を追放し室町幕府を樹立する。
しかし、彼に対する評価は真っ二つ。
戦場での冷静な判断は理想のリーダーとして評価される一方で、
為政者としての資質を問われた足利尊氏。
彼を激しく突き動かした“燃え尽きぬ信念”とは一体なになのか?
●足利尊氏の墓 安国寺(京都府綾部市)
14世紀半ば、尊氏は鎌倉幕府討幕~室町幕府創立にかけての戦没者の霊を慰めるために、全国60余州に一国一寺を建立した。この安国寺もその一つとして創建。尊氏の葬儀は京都市洛北の等持院で行われ、墓も同院に建てられたが、息子の二代将軍義詮が分骨して安国寺にも建立。母の清子、妻の登子に挟まれるようにして尊氏の墓は建っている。
●尊氏の出生地は京都綾部?
安国寺の参道近くには、尊氏が浸かったと伝わる産湯の井戸や、母・清子が男子出生を祈願した地蔵菩薩が残されており、尊氏の産着や毛髪なども保存されていることから尊氏の京都綾部誕生説も有力。
●大災害に遭った庶民たちの信念
度々地震や台風などに見舞われてきた日本。そのたびに当時の庶民たちは災害に立ち向かってきたが、
江戸時代、南海トラフ大地震の被害に遭った大坂の庶民たちは、その教訓を石碑に残している。
震災からの教訓を石碑に
「安政南海地震」(1854年で大津波の被害にあった大坂の人々は数々の石碑を建てた。 その動機は、さらに148年前の大津波で多くの犠牲者を出したが、年月が経つとその教訓が忘れ去られ、再び多数の死者が出たことを悔い、後世の人々が、津波や地震の時に同様の被害を出さないようにとの願いからだった。
●「常吉新田」開発者常吉の墓
天保5年(1834) 、 江戸時代最後の新田開発請負人・常吉庄左衛門が苦労の末、現在の此花区の淀川の河口付近を新田開発した。「常吉新田」と呼ばれ農民が多数移住してきた。しかし、その20年後の1854年12月24日、安政南海地震(今の南海トラフ大地震)が起こり、2~3mもの津波が大坂の町を襲い、約2千人もの命を奪った。「常吉新田」も河口のためほとんどが津波に流され、 4年後、常吉は失意のうちに亡くなった。
震災後のムーブメントを知った常吉の孫・常吉清治郎が、祖父の悔しさと震災の教訓を後世に伝えるため、祖父の没後50回忌の明治40年(1907)に墓を建立した。墓には「海嘯溺死者各位之霊」と記されており、安政元年(1854年)の津波による犠牲者たちを祀っている