テレビ大阪
以下、「#お墓から見たニッポン 8-1【なぜ天涯孤独から戦国大名に?】 毛利元就の墓の謎〜継母の無償の愛と壮絶生き残り戦略 #毛利元就 」の概要欄より
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毛利元就(1497-1571)
安芸郡山の一国人領主から知略 謀略 軍略の限りを尽くして
中国地方6国を制し戦国大名にのしあがった。
そんな元就だが、幼い頃、両親を相次いで亡くした時に、手を差し伸べたてくれた女性がいた。父の継室だった「杉大方」だ。
幼い元就を見捨てる事ができず、彼を養育したのだった。
脳科学的には、『その人が小さい頃にどんな養育者と特別な関係を結んだかによってその人の対人関係の雛形ができる』という。
杉大方の無償の愛に支えられた元就。
半生を振り返った時の彼の言葉
『まだ若かったのに大方様は自分のために留まって育ててくれた。
私は大方様にすがるように生きていた』
動乱の戦国時代を生き抜いた毛利元就の
原点は杉大方から得た無償の愛だっのかもしれない・・・
●毛利元就の墓
吉田郡山城(広島県安芸高田市)
「安芸高田市歴史民俗博物館」から登ると、石の鳥居が見えてくる。その奥に元就の墓がある。下段には毛利家の先祖の墓などが並び、上段には、「木」の墓標の元就の墓がある。
考古学者の朽木教授も珍しい墓という。
ハリイブキという中国原産の木で白っぽい色が特徴だが、今は枯れていて隣の木に支えられている。
●なぜハリイブキなのか?
ハリイブキには「この木にに花が咲けば村が栄える」という伝承があることから、墓を建てた孫の毛利輝元が、祖父・元就の想いに相応しいと考えたのではないだろうか。
●百万一心の碑の意味とは?
元就の墓の側には、百万一心の碑が建っている。
郡山城の改修の時、元就が人柱の代わりに「百万一心」と彫った石を埋めさせると工事が上手くいったという。文字を分解すると、『一日 一力 一心』と読むことができ、「日を同じうにし、力を同じうにし、心を同じうにする」ことから、「皆で力を合わせれば何事も成し得る」という一致団結の大切さの教えとされている。
【動乱の時代の庶民の生きた証とは?】
「動乱に巻き込まれていつ死ぬかもしれない」という死が隣合わせの時、庶民たちは石仏や墓にどんな思いを込めたのだろうか?
●ふたりの僧侶が刻まれた『笠塔婆』への思い
【山の辺の路~長岳寺】 奈良県天理市柳本町
824年、空海が開山したとされる長岳寺。本堂前には、高さ152㎝の細長い笠塔婆があり、地蔵像の下に二人の僧の姿が彫られ、一人は合掌して一方の僧を拝んでいる。その下面に元亨二年(1322年)の年号と「行春」の名が刻まれている。
●造立者も刻まれている非常に珍しい笠塔婆
師僧を合掌して拝む者こそ造立者の「行春」であろう。造立者が彫られているのは非常に珍しい。というのも「尊敬する師匠の死を悼み供養するための笠塔婆に自分を登場させることは通常ではあり得ない」と朽木教授はいう。それだけに見ている者の想像を刺激する。
●“鎌倉時代の終わりの始まり”
これが建てられた1322年は、即位した後醍醐天皇が打倒鎌倉幕府を打ち出し、その空気を敏感に感じ “動乱の時代に突入するかも”という庶民たちの危機感が背景にあり、行春が中心となり在家の信者たちと協力して建てたのではないか。その代表者として拝む姿を刻むことで、
「動乱に巻き込まれても、師匠との絆や一緒に建てた仲間との絆とともに残された人生を全うするという誓い」を表しているのかもしれない。
動乱期になると家族や親族だけでなく、地域の仲間たちとの「絆」を意識している事がよくわかる。