#お墓から見たニッポン 8-2【宮本武蔵~ 巌流島の真実は!?】組織か?己の道か?孤高の剣豪の墓の謎 #宮本武蔵 戦国時代の墓から織田信長の天下統一を待ち望んでいた庶民たちが見えてくる


テレビ大阪

以下、「#お墓から見たニッポン 8-2【宮本武蔵~ 巌流島の真実は!?】組織か?己の道か?孤高の剣豪の墓の謎 #宮本武蔵 戦国時代の墓から織田信長の天下統一を待ち望んでいた庶民たちが見えてくる 」の概要欄より

巌流島の真実とは⁉
孤高の剣豪 宮本武蔵の墓の秘密

🔴宮本武蔵(1584-1645)
戦国時代末期、剣の道を志すひとりの少年がいた。名は宮本武蔵.
幼いころから養父の元で厳しい修行を積んだ武蔵は、
わずか13歳で初めての決闘に挑む。
勝ったその瞬間、彼の心に剣への情熱が燃え上がった。

「剣こそが我が道」と悟った武蔵は、
当時の武士たちが安定を求めて幕府や藩に「仕官」する中、
剣のみで生きる道を選んだ。
他流派の剣士たちと戦いを重ねる姿は、
まるで野生の獣のように荒々しく、そして美しかった。

●宮本武蔵一族の墓(岡山県美作市宮本)
「武蔵神社」の石段を登ると、拝殿が見えてくる。その奥に武蔵一族の墓が広がっている。武蔵の墓は、養父の平田無二斎と母の墓の隣に並んで建てられている。

●武蔵の墓は自然石
生涯60数度の勝負に全て勝利した剣豪・武蔵に相応しい自然石の墓。
養父で無二斎の生誕地で、武蔵の「五輪書」にもこの近辺の播州平福で13歳のとき、最初の決闘をしたとあり、少年時代を過ごした地に武蔵の墓は建てられている。

●誰が武蔵の墓を建てたのか?
養子・宮本伊織(1678年没)が、ほぼ故郷に帰ることが無かった武蔵を「両親の元に返してあげよう」と尽力し、熊本弓削の“東の武蔵塚”から分骨したという。

動乱の時代の庶民も生きた証を⁉
「いつ巻き込まれて死ぬかもしれない」という時、
庶民たちは石仏や墓にどんな思いを込めたのだろうか?

●明智光秀の丹波攻略戦
大阪府豊能町には、「石仏」が多く残っている。
戦国時代、明智光秀が織田信長の命で丹波攻略を仕掛けていた頃、
庶民たちによって建てられた「多尊石仏」だ。

●象徴的な「北の谷多尊石仏」
高さ110㎝、幅130cm程の自然石に、まるで現代のマンションの様に4階層に分かれて22体の石仏と3基の五輪塔が彫られている。4段の最上段には定印阿弥陀座像、右に観音菩薩、 左に地蔵菩薩が配置されている。脇侍の右隣に2体、下三段に17体と計19体の同じ様な円頭合掌像が並んでいるが、これは地蔵を表しているものと考えられる。

●戦国時代の庶民たちの「絆」
みんなでお金を出し合った逆修仏(生きている内に死後を供養する)で、
総員22人の造立主という非常に珍しいものだと朽木教授は言う。
さらに珍しいことに、3つ彫られている五輪塔は完成前に亡くなった3人で、亡くなった仲間に対しても“強い絆”を持っていたことがわかる。

●庶民の期待の星だった“信長”
天正八年(1580)の文字が彫られているが、
この年を境に、多尊石仏は建てられなくなる。
その前年の天正七年、光秀の丹波平定が終わり、織田信長による天下統一が見えてきた時期だ。 庶民たちも、ようやく現世に希望を感じ始めたのではないだろうか。
動乱期になると家族や親族だけでなく、地域の仲間たちとの「絆」を意識している事がよくわかる。

【番組公式HP】 www.tv-osaka.co.jp/sp/ohaka_nippon/
【X 旧 twitter】 https://twitter.com/tvohistoryclub

スポゲル

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